羊飼いの夢を見る

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十二月二十三日

 ようやく見つかった、ひとつの答えと共に四角い牢から抜け出した。

 薄墨のような雲が、ゆったりと風に乗って流れる。灰色の空からまばらに降る雪が、地面の色を少しだけ濃くしていた。誰もいない砂浜を、あてもなく進む。
 アヤは、死んだのだそうだ。この海の向こう側で。

羊飼いの夢を見る

 自分とこの世を繋ぐ糸を、一本、また一本。丁寧に、断ち切りながら生きてきた。ある時は、ぬかるんだ樹根の下で、またある時は、雨漏りのする教会で。月明かりに照らされたビルの前で。旧財閥家の別邸の裏で・・・・・・。その瞬間は、行く先々で偶然を装いながら現れた。手にかけたのは、確かに他人だったけれど、不連続なミッション達は、緩やかな自殺のようにも見えた。
「ケン」を知っている人間が、一人、また一人。消えていく。消えていく度に、不確かになっていく自分が、確かに分かった。繋ぎ止めるものを失った身体は、自然と宙に浮いてくる。飛べもしないが、脚も、つかない。ゆらゆら、ゆらゆら。
 海に、潜ったみたいだった。

 冬の海。
靴を脱いで、片足ずつ、そっと水につける。 真冬の海は、凍ったように冷たい。 ぐわりと揺らぐ足首から先を眺めて、再び追想の旅に出る。

探していた人間は、どうやら自分だったみたいで。
ケンとして生きて、三年程過ぎた。ゆらゆらとした感覚は常に傍をついてまわり、加えて時折、自分と世界の境界が滲んだり、あるいは溶けだしたりもした。一人で生きるようになって、いつの間にか、過去は勿論、居場所も、名前も、誰かと共有することはなくなった。自分の中には存在しているのに、誰も姿を知らないそれは、肯定するのに、ほんの少し、覚悟が必要だった。
ふとしたきっかけで、人を殴ってからはさらに最悪だった。切り離されたと思っていた世界と、快楽だけを共有できてしまったのだから。皮膚の摩擦や、軋む骨の感触が過去の記憶を呼び起こす。それは確かにケンの過去だった。人を殴るという行為は、経験の延長上に身を置く手段になった。暴力によって得られる感覚だけが、外部から得られる、生きてきた証だった。自分の存在を肯定するものがあることの心地よさと言ったら!
 その日は、少しむしゃくしゃしていた。衝動のままに雨の中、少年を打ち付けていたところを止められた。真っ直ぐこちらを見る瞳は鏡のようで。惨めに雨に打たれる男の姿をじっと写していた。

相も変わらず、冬の海。
水面に漣を立てた風が短く頬を撫でて通り過ぎる。 寄せては返す境界線。
踏み込んでみようか。もう少しだけ、波の下へ。
一歩だけ、前に足を進めようとして、やめた。

「アヤ、俺、行けないよ」
「そっち側には行けない」
 あの時、道を示してくれたなら、きっとどこへでも行けたのだ。地獄だって何処だって。彼の言葉は、世界中のどんなものより、真実だったから。けれどもあの日、アヤが行き先をくれることはなかった。その代わり、己の選択への答えとして、笑って差し出された右手。その温もりを、裏切ることはしたくなかった。

 一度目は、互いに知らぬまま。二度目は友達として、彼の死を迎えた。それならば、と先のことを考える。
「三度目の死は、譲ってくれるかな」
生物学上の死ではなく、忘却による死。できることなら、最後の一人。彼の存在を抱えて死にたい。
「・・・・・・いやでも、オミがいるか」
一瞬よぎった考えは、最年少の友人によってかき消される。鷹取の血は、侮れない。
 心中という言葉は、甘い響きを持って海の底をやんわりと示す。ほんとを言うと名残惜しかったが、たとえ一緒に死ねなくても、頭の中の引き出しから、何度も何度も取り出せば、一緒にしわくちゃにくらいはなってくれるかもしれない。

いつの間にか、赤い海。
今晩は、焼き魚が食べたい気分だった。

20220514